観客1千万人動員の「国際市場」は映画に過ぎないという人たちへ

※この記事には映画のストーリーに関する内容が含まれています。

写真=映画「国際市場」ポスター、(C)CJエンターテインメント


ユン・ジェギュン監督の映画「国際市場」が新年初の“観客1千万映画”になった。現在はある程度落ち着いたが、この映画をめぐる論争は公開前から激しかった。「国際市場」に“あの頃の父たち”が受けるべき賛辞を代わりに送る人がいれば、粗末な構成を指摘する人もいた。また、監督の口で「政治的性向を排除した」と語るこの“無色の映画”が、誰かの思惑に利用される可能性について懸念する人もいた。あっという間に保守とリベラルの葛藤にまで広がった論争に人々は「映画は映画に過ぎない」と注文し始めた。これは「国際市場」との映画のテキストのほかには、あの時代であれこの時代であれ、批判的な視線は辞めようとの言葉と違いない。

実際「映画は映画に過ぎない」との理屈は、この論争を収拾する最も簡単な解決作だ。多くの人々が口を揃えるように「国際市場」では、ユン・ドクス(ファン・ジョンミン)の至難だった人生に共感し、涙を流せばそれで十分かもしれない。しかし「映画は映画に過ぎない」との言葉の軽さが最大化される瞬間、これは便利に誰かの口を封じ込む手段になる。映画への批評の流れに無理やり入り込もうとするこの理屈は「国際市場」への批判が、時代の流れに体を預けるしかなかった小市民であり、産業化の担い手だった“ドクスたち”または、観客を侮ることとの誤解から始まる。「映画は映画に過ぎない、格好つけるな」だ。


「国際市場」を批判すると映画を観る視点が高いことが証明され、大泣きしたからといって映画のことが分からない知識の乏しい人になるわけではない。映画をありのままで楽しむ行為と、これを内外で批判することは全く別のことだ。


また、私たちは、完璧ではないが、今日を共有する全世代の血と涙が滲んだ“悩むことができる土壌”の上で「国際市場」を見る。そのように、誰もが悩んでも良い時代が作られたものの、今は父に関する話だから「映画は映画に過ぎない」と悩むことを辞めろという。それが産業化時代の労苦に感謝し、その時代を思う唯一な方法だろうか。そうするために再び悩むことさえも贅沢だった時代に戻るべきだろうか。


ドクスを生かし、犠牲にしたのは“時代”ではなく“家族”


ユン・ジェギュン監督のJTBC「ニュースルーム」とのインタビューを抜粋すると「国際市場」は「政治的、社会的、歴史意識を持って始まっていない」映画だ。しかし、無色も色であり、無臭も匂いだ。さらに“無色”とは最も純粋に見えるが、最も染まりやすい状態でもある。「国際市場」は自ら“政治的色なし”を主張したが、これは結果的にこの映画をそれぞれ好きなように利用できるようにする根拠となった。

同映画でほぼ唯一解釈が分かれた、夫婦喧嘩の途中「国旗に対する敬礼」をするシーンを考えてみよう。誰かはこの状況を愛国心の表現だとし、誰かはこれを国家主義を批判する風刺だと評価した。これに対する監督の答えは「あなたも正しく、あなたも正しい」だった。監督は誰の機嫌も損ねたくなかったのだろうか。結局、このような答えはそれぞれの解釈が論争に広がる原因となった。また、これは“1千万映画”への監督の熱望が現れる部分でもある。



我々はみんな父と母から受け継いだ人生を生きる。彼らが譲ったのは「食事を欠かすことはない」または「温かく、満腹な」経済的自由だけでなく、彼らの苦痛は「食べ物も着る物も足りなかった」肉体的苦痛だけではない。映画のドクスの「この厳しい世間の荒波を我々の子どもではなく我々が経験してよかった」との呟きは、自身の子ども世代に譲り渡したくない世の中に対する悩みから始まった、胸にしみる独白だ。そして、その世間の荒波とは、国家の権力に服従するしかなかった、本と音楽を自由に楽しめなかった、精神的な自由を奪われていた状況での苦痛まで含む。

しかし、この映画はドクスの個人の歴史に近現代史の中の大きな事件をこじ入れたにも関わらず、彼が経験した苦痛の原因を完全に家族のものにする。三兄妹と妻を置いてマクスンを助けると興南(フンナム)埠頭から消えた父(チョン・ジニョン)は、幼いドクスの手に負えない罪悪感を与えた。ドクスに次々と押し寄せてくる苦難は決まった運命、または天変地異のように偶然的で、これを克服することはドクスの家族愛といわゆる“タイミング”だ。結局映画の中でドクスをはじめとする父たちを犠牲にしたのは、時代というよりは家族だ。


ドクスを生かしたのも、犠牲にしたのも家族であることは当然のように受け入れられる事実であるため、さらに悲しい。しかし、そのようなドクスの苦痛を強調するために、残りの家族はどこまでも軟弱で我がままな人物に描かれ、時代的背景は完全に観客の感情的爆発だけのために所々切り取られた。


実に軽く感傷的な描写だ。ドクスという人物の平面性をファン・ジョンミンの演技がせめて活かしたように見えるほどだ。そのため、このストーリーは「国際市場」との空間が抱いている特殊性を揮発させ、どの国、どの時代にもありそうな千篇一律的な英雄物語になった。結局親時代の過ちはもちろん、功の表現さえも大雑把なものになり、あれだけ苦労していた父たちの過去は、如何なる時代的省察もなく、ただ2時間あまりの映画として消費されるだけだ。


映画の中で父と尊い犠牲だけを読み上げて欲しいのであれば、奇皇后の名前と時代を借りる必要もなかったラブストーリーのドラマ「奇皇后」のように、あえてドクスの「国際市場」である必要もない。そのため「国際市場」が誰も簡単に触れられなかった父たちの過去の中で、映画にしやすい部分だけを切り取って販売したとの印象をなかなか拭えない。

特定の時代が口にしてはならない聖域のように扱われることを望むわけではない。父の時代だけでなく、どの時代も省察と尊重のない浅い視覚を通じて「映画としてだけ観ることを強要される映画」で描かれないことを願うだけだ。


世代間の論争が熱いこの映画の最大の教訓、他の時代との疎通



「国際市場」は確かに気軽に見れる無難な映画だ。楽しく観てもよく、悲しみと懐かしさに嗚咽してもよく、「フォレスト・ガンプ/一期一会」と同じだと感じても良いだろう。このような純粋な感想こそが映画を映画として観た時に出るもので、誤解してはならない評価だ。しかし、映画の影響力に対する過小評価でもある「映画は映画に過ぎない」との言葉が、誰かの悩みを止める手段として用いられることは警戒すべきだ。

父の父、父、そしてまだ父になれなかった子たちは、お互いにそれぞれの時代を生きることに追われ、お互いを理解できなかった。これは、現在我々が直面している現実であり、映画の中でもかなり繊細な方式で描写された。「国際市場」の最後に、頑固な年寄りになったドクスは子どもたちから慰められないまま、寒い部屋に閉じ篭り、父のコートをつかみ自身を慰める。この苦い絵はそれぞれの世代の中の個人たちが、お互いに対する悪意を抱いたから発生したことではない。これは、話す準備も、聞く準備もできていない世代同士の葛藤の悲しい肖像だ。


父になることを諦めた世代に、父になることの喜びを説明したところで共感できるはずがない。そのため、我々は他の世代の苦痛を直視する必要がある。お互いが抱いている苦痛の形と原因を見ても、わざとその重みを計る必要はない。「国際市場」がくれる最大の教訓は、この過程で存在する“疎通”の必要性だろう。


ユン・ジェギュン監督は映画の外面的な部分で父世代に対する深い配慮を見せた。「国際市場」が500万観客を突破してから監督とスタッフは、ソウル清凉里(チョンリャンリ)の“パプポ”無料給食所で一人暮らしの年寄りに昼食を配った。それが一回限りのイベントだったとしても、海雲台(ヘウンデ)に見晴らしの良いアパートを持つドクスほど成功できなかった数多くの父たちにフォーカスを当てることには成功した。


統計庁の「2014高齢者統計」によると、韓国の老人貧困率は48.1%に達する。OECD国家の中でも断トツの数値だ。そして、この老人たちは「国際市場」のスポットライトを当てられなかった、また違う“ドクスたち”であり、関心が必要な歴史だ。





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